八柱霊園はなぜ東京都立なのか 気になる声も少なくありません。
この理由について調べていくと、 八柱霊園の歴史にヒントが隠されていました 。
また、八柱霊園には八柱霊園の歴史について文献などが公開されています。
こちらを元に八柱霊園の開園秘話や開園当時の様子など歴史についても詳しく解説していきますので、参考にご覧ください。
都立霊園とは?
都立霊園とは、東京都が管理、運営している霊園を指します。
現在は八柱霊園を始め、多摩、雑司ケ谷、谷中、八王子、青山、小平、染井の8ヶ所にあります。
都立霊園の歴史は江戸時代に遡り、当時は寺請制度が一般的な中、明治時代に入り埋葬に対する考えが変わり、一部の地域では禁止され始めました。
その後、明治政府は「墓地取扱規則」を制定し、9ヶ所を公共墓地に指定し、委託された東京会議所が9ヶ所のうち8ヶ所を造成し、公共墓地の事務に関する業務を仕切る形となりました。
しかし、人口の増加や都市開発が進むにつれ墓地の造成が必要となり、1923年に多摩霊園が造成されてから都内に各霊園も造成されるようになりました。
八柱霊園の歴史
八柱霊園は32万坪の広大な墓地であり、昭和10年に開園されました。
※当時の様子
この土地は、もともと吉田仁左エ門という大事主の土地でしたが、幕末の大山火事の惨害に遭い、復興しないまま湯浅宇右衛門の所有となりました。
大正9年には吉田甚左衛門の所有となり、東京市に売却された流れとなります。
また、この八柱霊園の土地には、かつて小金中野放の御放馬囲場として幕府の管理下におかれていました。
明治44年頃、京成電気軌動株式会社は押上から成田間の電鉄開発、さらに東京市内の寺院の墓地移転と周辺の交通機関の設置を計った宝城電鉄の計画を引き継ぎ、90万坪計画を持っていましたが、途中で誘到計画は挫折されています。
しかし、それから20年後、多摩霊園の狭隘に伴い東京市営の霊園墓地建設計画が再び起こりました。
この時に八柱村や鎌ヶ谷村などが誘到運動を起こし、鎌ヶ谷村では渋谷家が中心となり1反歩390円の線で運動していましたが、 最終的には八柱村の1反歩570円に決定 し、これには交通の便や吉田甚左衛門の人脈が関係したと言われています。
名前の由来もこの八つの村から来ています 。
呼び方は「やはしら」ですが、最近では「やばしら」とも呼ばれるようになりました。
そして、松戸町と八柱村の合併後の昭和10年6月に東京市営の公園墓地八柱霊園が開園しました。
加納治五郎や長谷川時雨など多くの著名人が眠っていることでも知られています。
また、戦時中は軍の基地となり、軍の戦車やトラックが走っていました。
そして、戦争が終わると墓の利用者が増え、墓の需要も急激に増加しました。
参道周辺には数十もの石材店が構え、お彼岸やお盆には1日数万人も訪れるようになり、周辺は渋滞し、歩道には出店も並びました。
しかし、平日になると公園らしい静けさを取り戻していたようです。
当時は八柱霊園の利用目的も様々であり、
・恋人とのデート
・免許取得の練習
・犬の散歩
・ゴルフのショートコース
・スキー
などの目的で利用されていました。
しかし、 最近では心霊目的であったり、当時も浮浪者が目撃されており痴漢被害や親父狩りもあった と聞きます。
現在も八柱霊園に肝試し目的で行く方は少なくありませんが、くれぐれも八柱霊園の閉園時間などのルールを守るようにしましょう。
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八柱霊園はなぜ都立?
八柱霊園は昭和10年6月に東京市営となる公園墓地八柱霊園が開園しました。
当初は名前の通り都立ではなく、 市営霊園として運営されていました 。
しかし、 都制施行により1943年に都立霊園として東京都に管理、運営が引き継がれました 。
八柱霊園の歴史も含め各資料を共有致しますので、ご確認ください。